後円部から見た前景
三国指定史跡造山古墳
当古墳は長約350メートル、 後円部径約200メートル、高さ約24メートル、前方部
幅約215メートルを測る前方後円墳で、岡山県下で第1位、 全国でも第4位、 自由に立ち入りできる古墳としては全国一の規模を誇ります。 大正10年(1921) 周辺の中小古墳第一~六古墳) とともに国指定史跡となりました。
古墳は、低い丘陵を切断し土盛りや削平などを施して形を整えています。 墳丘は三段築成で、 くびれ部両側に台形の造り出しを設けています。 また、 地丘表面には葺石がふかれ、各段には円筒埴輪がめぐらされていました。このほか、盾・靭蓋・家などの
形象埴輪も見つかっています。
埋葬施設などの詳細は未調査のため不明ですが、 墳丘規模・外表施設等の有り様からみて、被葬者は当地域の首長であったと同時に、 吉備全域をも統轄していた大首長の地位にあったと考えられます。 また、 造山古墳に次ぐ作山古墳 (総社市)、両宮山古墳(山陽町) などの巨大古墳の存在は、 吉備が畿内の勢力と肩を並べるほどに強大であったことをうかがわせます。
なお前方部に置かれている刳りぬき式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製(ようけつぎょうかいがん)で蓋には
直弧紋(ちょっこもん)が刻まれているなど九州地域の石棺の特徴を持っています。 近くの新庄車塚古墳から選ばれたものとも、当古墳の前方部から出土したとも伝えられています。
平成15年3月31日
岡山市教育委員会
前方部には石棺がぽつんと置かれてている。
傍らには祠が建てられています。
上記の石が石棺の蓋になるのだそうです。
石棺蓋
大正10年3月8日指定
史跡造山古墳の前方部頂部には、刳り抜き式の長持形石棺の身が置かれている。 阿蘇凝灰岩製で、 千足古墳の石障とともに吉備と九州が緊密な関係にあったことを示している
この石棺は、造山古墳の北にあった車塚古墳から運ばれたという説と、造山古墳から出土したという説がある。
やや離れた位置にある石棺の蓋は完形ではないものの、表面に直弧文の線刻があり、内側には赤色顔料が明確に残る。
また神社石垣には阿蘇凝灰岩製の石塊が認められる。
石棺の身以外の部材が認められることから、造山古墳以外の場所から持ち運ばれてきたのではなく、付近で出土した可能性が高いと思われる。
平成25年3月
岡山市教育委員会
前方部から見ると後円部は平らに整えられている。
円方部に上がってみると
めちゃくちゃ平らですね。
実は後円部の上部を戦国時代に平らにして戦陣にしたのは、戦国武将、宇喜多直家(うきた なおいえ)なのです。
彼は、造山古墳の後円部を利用して戦陣を構えたとされています。
この行為は、古墳の歴史的な価値を示す一方で、戦国時代の武将たちの戦略や地形の利用を象徴するエピソードとして知られています。
石棺もこの時に移動させられたのかもしれませんね。
現在この古墳は修復が行われています。